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大阪地方裁判所 昭和58年(ワ)6033号 判決 1985年6月28日

原告

和田邦雄

右訴訟代理人

山本毅

被告

向井勇

被告

向井靖代

右両名訴訟代理人

河上泰廣

御廐高志

三好邦幸

被告

富士火災海上保険株式会社

右代表者

葛原寛

被告

飛鳥和之

被告

飛鳥宗弘

右三名訴訟代理人

中村真喜子

主文

一  被告らは連帯して、原告に対し、金一八三万〇、四六五円及びこれに対する昭和五八年九月八日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

被告らは連帯して原告に対し、金四四六万八、四七〇円およびこれに対する昭和五八年九月八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  原告

(一)  原告は、大阪府堺市新家町六九七―一において、邦和病院(以下、原告病院という。)という名称で病院を開設している医師である。

(二)  被告向井勇(以下、被告勇という。)は、同人を被害者、被告飛鳥和之(以下、被告和之という。)を加害者とする交通事故にあい、昭和五八年三月一〇日から同年五月七日まで原告病院で入院治療を受けた。

(三)  原告と被告勇間では、昭和五八年三月一〇日、被告勇の妻被告向井靖代(以下、被告靖代という。)を代理人として、診療契約を締結し、被告勇は、同年五月四日までの間、原告病院において、自由診療を受けた。

仮に、原告と被告勇間で右の如き診療契約が締結されていなかつたとしても、少なくとも、原告と被告靖代間では、被告靖代を要約者、同勇を第三者、原告を諾約者とする診療契約を締結し、被告勇は原告の治療行為を受けることによつて、黙示による受益の意思表示をした。

(四)  原告は、被告勇の治療のため、昭和五八年三月一〇日から同年五月四日までの間、治療費として合計六四六万八、四七〇円を要した。

(五)  被告靖代、同和之、同飛鳥宗弘(以下、被告宗弘という。)、同富士火災海上保険株式会社(以下、被告会社という。)は、原告に対し、原告と被告勇間の診療契約に基づく、被告勇の原告に対する治療費支払債務を、それぞれ被告勇と連帯して支払うことを約した。

(六)  被告会社は原告に対し、右連帯債務者として二〇〇万円を支払つた。

(七)  よつて、原告は被告らに対し、連帯して、治療費残額金四四六万八、四七〇円及びこれに対する本訴状送達の翌日である昭和五八年九月八日から支払済まで民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  原告の主張に対する被告らの答弁

(一)  被告勇、同靖代の答弁

(一)及び(二)の事実は認める。

(三)及び(四)の事実は否認する。

(五)のうち、被告靖代が原告と被告勇間の診療契約に基づく被告勇の治療費支払債務について、原告に対し被告勇と連帯して支払うことを約したことは認め、その余の事実は不知。

(六)の事実は認める。

(二) 被告和之、同宗弘、被告会社の答弁

(一)及び(二)の事実は認める。

(三)及び(四)の事実は否認する。

(五)の事実は否認する。

(六)の事実中、被告会社が原告に二〇〇万円を支払つたことは認め、その余の事実は否認する。

二  被告ら

(一)  被告らの主張

1 保険診療契約

被告勇は、昭和五八年三月二五日、被告勇を世帯主被保険者とし、河内長野市を保険者とする国民健康保険被保険者証(以下、被保険者証という。)を大阪府知事により保険医として登録されている原告に提出し、保険診療を求めた。

ところが、原告は、国民健康保険法による具体的療養給付義務を負つていたにもかかわらず、不当にそれを履行しなかつた。

(1) 通常、診療契約は、患者の病気の診療・医療に関して医療機関と当該患者又はその監護義務者との間に締結される諾成・双務・有償契約と解され、医療機関は患者の病気を治療して健康を回復増進することを義務内容とする準委任契約と解される。

右準委任契約に基づき、医師は、善良なる管理者の注意をもつて誠実に患者の治療にあたり(民法六四四条)、また、療養に関して適切な指導をし、助言を与える(医師法第一九条一項、二三条)等の義務を負い、患者は診療費を支払う等の義務を負う関係にある。

ところが、保険診療においては、診療の本質は、右の診療契約と差異はないものの、それが、社会保障の一翼としての医療保障制度の具体化されたものであることから、その構成・手続きを異にする。

(2) 国民健康保険につきみると、医療機関ないし医師は、知事(国の機関として保険者=市町村等に代つて)の指定(国民健康保険法三七条)ないし登録(同三八条)を受けることによつて療養担当者となるのであるが、その法的構成は、(私法上・公法上の点はさておき)保険者との間で療養の給付・治療方針・治療報酬等につき国民健康保険法(以下、国保法という。)に規定されている条項(法定約款)を内容とする第三者(被保険者)の為にする双務的・附従的契約を締結したものと理解され、従つて、被保険者は、その反射的効力として保険医療機関に対して、保険診療を求める権利を有するものと解される。つまり、療養担当者となることにより、保険医は、保険事故である「疾病」その他の事故(同法第二条)が被保険者に発生した場合、保険の目的である「療養の給付」を行なう義務を有することとなるのである(同法三六条)。右「療養の給付」は、実質においては、「診療行為」と異ならず、患者との間では、患者から診療を求められた際、その提出された被保険者証によつて、その者が「療養の給付」を受ける資格があることを確認した上で行なう(同法三六条五項)という差異があるにすぎず、また、被保険者証の提出もいわゆる急患や、やむを得ない事由によつて被保険者証を提出することができない場合など、患者が被保険者であることが明らかであると認められるときには被保険者証の提出すら要しない。

従つて、被保険者が保険診療を求めた際には、保険医は応招義務(医師法一九条一項)を負い、正当事由のない限り「療養の給付」を拒否し得ない。

(3) 本件で、原告は、被告勇が救急車で搬入され、被告靖代から被保険者証を提出された時点において、当初からの保険診療、つまり療養の給付をなすべき具体的療養給付義務を負つたものというべきである。

(4) そうすると、被告勇が保険診養を求めたことにより、原告の被告らに請求しうる治療費は、健保基準により換算した治療費合計三二九万七、七三〇円のうち患者負担分(三割)に相当する九八万九、三一九円と、保険給付対象外の四万一、三五〇円の合計一〇三万〇、六六九円となるところ、被告らは、既に二〇〇万円を支払つているため、被告らは原告に弁済すべき治療費はない。

2 自由診療契約の解除

仮りに、昭和五八年三月二五日になされた被保険者証の提出が、被告勇の入院当初より効力を生じなかつたとしても、被告勇は、右被保険者証の提出によつて、入院当初からの被告勇と原告間の自由診療契約を解除する旨の黙示の意思表示をした。

(二)  被告勇、同靖代の主張

1 濃厚、過剰診療<省略>

2 相殺の抗弁

(1) 国民健康保険の被保険者は、交通事故においても国民健康保険による保険診療を受ける権利があり、保険指定もしくは登録医は、国民健康保険による治療を拒むことができない。また、保険指定・登録医は、患者が、国民健康保険により治療を受けようとするのを妨害したり、自由診療で治療を受けるよう求めたりすることはできない。

しかるに、原告は、保険指定・登録医であつて、原告病院は療養機関であるのに、原告病院事務局長は、被告靖代に対し、被告勇が救急入院すると直ちに自費自由診療で治療を受けるよう強引に求め、無理やり自費自由診療で治療を受けるよう承諾書に署名させた。

被告勇は、昭和五八年三月二五日には既に被保険者証を原告病院に提出して保険診療を求めてはいるが、原告病院事務局長の右のような不当な強要行為がなければ被告勇は、入院当初から国民健康保険により治療を受けることができたのであつて、事故日から昭和五八年三月二五日までの被告勇の負担すべき治療費は被告勇の三割自己負担分だけで済んだはずである。仮りに国民健康保険を使用することができておれば治療費合計は一七〇万四、九八〇円であり、被告勇の自己負担分は五二万〇、八二七円であつた。従つて、原告の右の如き不当な強要行為により被告勇の右期間中の自由診療治療費額三三九万六、五三〇円から国民健康保険の場合に負担しなければならない被告勇自己負担分五二万〇、八二七円を差し引いた二八七万五、七〇三円の損害を被つたものというべく、被告勇、同靖代は原告に対し、右金額の損害賠償請求権を有する。

(2) また、昭和五八年三月二五日に、被告勇は被保険者証を提出して保険診療を求めたのに、原告病院事務局長はこれに応じようとしないばかりか「健康保険にするならすぐ強制退院させてやる。野垂れ死にしても知らん。」「付添看護婦もつけず便も垂れ流しにさせる」など原告病院の要求に従わなければ被告勇の生命・身体を犠牲にするかのような脅迫を加え、被告らを不安と恐怖のどん底に陥し入れた。そればかりか、「健保にするなら転院しろ。」と言いながら転院のための紹介状も書かず、そのため患者側は転院先をみつけることもできず苦しみ抜いた。そしてついには、原告病院における治療費の支払のため、金利・貸主等を白地にしたサラ金の借用証のようなものに署名押印するよう求め、被告勇・同靖代は原告病院事務局長の右の如き脅迫行為により死ぬ程の苦しみを味わつた。

この間の被告勇・同靖代の精神的苦痛を金銭的に評価すれば合計二〇〇万円とするのが相当である。

(3) 従つて、被告勇・同靖代は(1)の損害賠償請求権に基づく二八七万五、七〇三円及び(2)の慰謝料請求権に基づく二〇〇万円の合計金四八七万五、七〇三円のうち本訴請求額と対等額にて相殺の意思表示をする。

三  被告らの主張に対する原告の答弁

(一)の事実はいずれも否認する。なお、被告勇が原告に対し被保険者証を提出したのは、昭和五八年五月四日であつて、原告と被告ら間では同月五日から保険診療とすることに合意していた。

仮りに、被告勇の診療が昭和五八年三月二五日に被保険者証が提出されたことにより保険診療になつたとすれば、原告は、被告らの主張する保険診療契約に基づき、仮定的に、国民健康保険による被告勇本人負担分を請求する。

(二)の事実はいずれも否認する。

第三  証拠<省略>

理由

第一本件診療契約の内容

原告は、原告と被告勇の診療契約は自由診療契約である旨主張し、被告らは、これを保険診療契約である旨主張するので、本件診療契約の内容につき判断する。

一<証拠>を総合すると次の事実が認められ、右認定に反する証人松川盛美の証言は前記各証拠に比し措信しえず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(一)  被告勇は、同人を被害者、被告和之を加害者とする交通事故で受傷し、救急車により、昭和五八年三月一〇日午後一〇時六分ごろ、原告の開業する邦和病院へ搬送されて、同病院で救急入院治療を受けたが、搬入された際の被告勇の傷病は頭部外傷、脳挫傷、右第三ないし第九肋骨々折、肺破裂、血胸、皮下気腫、左肩左足関節打撲、挫滅創であつて、症状としては、意識障害をおこし、呼吸障害も著明であつて、極めて重篤な状態であつた。そこで、原告はその治療として輸液路を確保し、酸素吸入器(ボリュームリミッテッドレスピレーター)、心電図をセットし、注射、処置治療を施すなど救急措置を構じたが、被告勇の傷病は悪化し、翌一一日には肺道が破裂し、肺の血液が右胸腔内に充満して呼吸不全状態となつたことから、同日深夜には窒息を避けるべく気管内挿管手術を行なうなどの救命措置を施した。ところが、被告勇は、右傷病のため、右肺出血量が増加する一方であつて、気管内挿管のみでは出血による窒息状態を回避することができなくなつたことから、翌一二日午後には被告勇の気管切開手術を施し、あわせて栄養摂取、脳循環代謝改善、脳血流改善、感染予防、止血のための点滴、輸血治療等を適宜実施した結果、被告勇の症状は、同月一五日には肺炎を併発するなど一進一退の症状が続いたものの、翌一六日には一応の危篤状態を脱し、序々に回復に向つた。一方、被告勇に対する食事療法も同月一六日からは流動食で慣らし、右肺への気管切開挿入及び胸腔ドレーンを同月二三日に至つて抜去することができ、また、被告勇の意識も序々に回復し始めたため、同月二五日からは粥摂取に切り換えられた。

(二)  被告勇の妻被告靖代は、知人からの連絡により被告勇の入院先である邦和病院へかけつけた日の翌日にあたる昭和五八年三月一一日、原告病院事務局長の求めに応じて、1、自費自由診療を受けます。2、自賠責保険及び任意自動車保険に基づく請求受領に関する権限を貴病院に委任します。3、上記患者が貴病院に支払うべき治療費、室料その他の費用は連帯して支払います。という内容の承諾書に署名、指印し、被告勇部分についても代署した。ところが、被告靖代は、損保リサーチ社員岡村栄治から、被告勇の診療につき、かねてより勧めのあつた保険診療への切替えに応ずることとし、昭和五八年三月二五日、被保険者証を原告病院事務局へ提出したところ、昭和五八年三月一〇日ごろにはすでに大阪府知事により国民健康保険の取扱い指定及び登録を受けていた原告の開業する原告病院(療養機関)事務局長は、同月三〇日、被告靖代に対し、被告勇の被保険者証を受取つていなかつたことにすると申し出るとともに右被保険者証を被告靖代に返還した。そこで、被保険者証の取扱いに困つた被告靖代は、翌日、被告飛鳥宅を訪ね、これの取扱いを被告飛鳥らに一任し、右被保険者証を同人らに手渡したものの、原告病院事務局長から「保険扱いにすると充分な治療看護ができない。」旨勧告されたことと、被告会社社員高田らから保険診療への切替手続を勧められたこととの板ばさみにあつて逍遥し、義兄夫婦の忠告もあつて、一時は保健診療への切替えを断念したことがあつたものの、最終的には被告会社にその取扱いを一任し、被告会社社員高田から依頼を受けた弁護士は、同年五月四日、再び原告病院に被保険者証を提出した。

二右事実をもとに本件を考えるに、問題となるのは、第一に、交通事故により受傷した被害者が国民健康保険被保険者であつた場合、国保法に基づく療養保険給付を受けることの可否、第二に、後日提出された被保険者証の提出の効力、特に遡及効の有無、第三に、遡及効が否定されたときの、被保険者証提出までの診療契約の内容、第四に、被保険者証提出による従前の診療契約の効力への影響、第五に、一旦提出された被保険者証により生じた保険診療利益の放棄の可否をそれぞれ解決する必要がある。

(一)  交通事故による受傷に対する療養保険給付の可否

国保法は、被保険者の疾病、負傷、出産又は死亡に関して必要な保険給付を行なうことを目的とし、被保険者の保険事故については、これを限定してはいるものの、同法に基づく療養保険給付は絶対的必要給付であつて、同法が、国民健康保険事業の健全な運営を確保するとともに、偶発的、不可測的な事故にあつた国民が医療費等の調達のため経済生活の均衡が破れ、経済生活の向上と発展を阻害されることがないようにするため、共同貯蓄制度としての国民健康保険制度をその目的としていることに鑑みれば、交通事故により負傷、疾病した被保険者に対し、療養保険給付が行なわれなければならないことは当然であつて、これを排斥すべき理由はない。ところで、同法六一条には、保険事故の発生原因のうち、倫理的に許容しえない事由に起因する保険事故については保険給付を制限することができる旨規定しており、右規定は、その条文の文言、趣旨からすると、制限の認定及び制限の程度について、保険者に対し、その裁量権を与えている、いわば相対的制限規定と解される。しかしながら、国保法によれば、保険者は、被保険者に疾病、負傷その他の法定保険事故が発生した場合には、療養保険給付を行なう義務を負い、その事故の発生原因については、これを問わないのが原則であつて、療養保険給付を制限することは例外に属するのであるから、法六一条の適用も例外規定として厳格に行なわなければならず、国民健康保険制度の基本となる、相扶共済の趣旨を損い、公益上の見地からも弊害を防止する必要があり、かつ、保険事故の偶然性の欠如、国庫負担の意義を損うような、いわば、社会的に非難されるべき泥酔または著しい不行跡による交通事故にのみに適用されるべきであつて、右の如き諸点を考慮すれば、運転中止義務の求められる酒酔運転、運転操作を誤る危険性のある無免許運転、暴走運転等を原因として発生した自損事故などの著しい不行跡事由を除き、原則として過失に基づく交通事故による疾病、負傷は、同条の適用がないものと解されるのである。

これを本件にみると、被告勇の受傷は、通常の交通事故によるものであることが認められるから、保険事故による疾病ないし傷害であるとして、国保法における療養保険給付を受けることができるものと認められる。

(二)  被保険者証提出の効力

その住所地の都道府県知事に対して所定の様式による登録申請書を提出し、行政庁に備付られた特定の帳簿(国民健康保険医名簿)に記載されている医師(以下、保険医という。)に対し、被保険者である患者が、その療養取扱機関において療養保険給付を受けようとするときは、自らが療養保険給付を受ける資格を有することを証するため、療養取扱機関に対し、保険者から交付された国民健康保険被保険者証を提出しなければならない(同法三六条五項)。これを保険医からみると、患者から療養保険給付を受けることを求められた際には、療養取扱機関は当該患者が被保険者としての資格を有することを被保険者証の提出により確認しなければならず、これを確認することによつてはじめてその患者の診療を保険診療として取り扱い、保険者に対して診療報酬の請求を行なうことができるものと解される。しかしながら、緊急その他やむを得ない事由によつて被保険者証を提出することができない事情の存する患者であつて、かつ、療養保険給付を受ける資格のあることが明らかな患者については、診療開始当初に被保険者証の提出がなくとも患者は保険診療を受けることができ、保険医は当該患者に対し療養保険診療を行なうことができる(保険医療機関及び保険医療養担当規則三条)のであるが、患者はこれらの事由がやんでのちには、遅滞なく、被保険者証を療養取扱機関に提出しなければならず、療養取扱機関はこれにより、患者の受給資格を確認しなければならないものと解される。

これを本件にみると、交通事故で負傷し、救急車によつて原告病院に搬送された被告勇には緊急その他やむを得ない事由のあることは明らかではあるものの、療養取扱機関である原告病院において、被告勇の入院当初、同人が国保法による療養保険給付を受けうる資格があることを知悉していたものと認めるに足る証拠がないのみならず、被告勇の代理人と解される被告靖代において、被告勇の治療を保険診療により受けさせようと決意した契機が、損保リサーチ社員岡村栄治の勧めによるものであつたことの認められる本件においては、被告勇の入院当初、被告靖代には原告病院において保険診療を受ける意思はなかつたことが明らかであるから、被告靖代が被保険者証を療養取扱機関である原告病院に提出した昭和五八年三月二五日の翌日以降の治療についてのみ保険診療を受ける旨の受益の意思表示がなされたものというべきである。

ところで、療養取扱機関は、患者から被保険者証を提出され、保険診療を求められた場合には、国民健康保険法の趣旨及び目的に照らし、これを拒むことができず、保険医は保険診療方針を設定し、患者に対し、医学的、経済的、社会的に適正な診療を行なう義務があるものと解され、従つて、被告勇の妻被告靖代により、昭和五八年三月二五日、療養取扱機関である原告病院に対し、被保険者証の提出があり、保険診療を受ける旨の意思表示がなされたことが認められる本件では、原告は、遅くとも、昭和五八年三月二六日からは保険診療により治療すべき義務があつたものというべきである。

(三)  初診日以降被保険者証提出までの法律関係

一般に、診療契約は、患者と法人格を有する医療機関または医師(以下、医師等という。)との間に締結される諾成、双務、有償契約であつて、医師等は患者に対し、患者の疾病、傷害を治療して健康の回復増進をはかるべき義務があり、患者はこれに対して診療費を支払う義務を負うものと解され、従つて、患者において、医師等に対し、保険診療により治療を受ける旨の意思表示がなされない限り、患者と医師等との間には、原則として、右の如き自由診療契約を締結したものと解される。すなわち、後記の如く、保険診療の契約当事者は保険者と医師等であつて、被保険者=患者は受益者と目され、受益の意思表示を被保険者証の提出により行なわねばならないのに対し、自由診療契約は、医師等とともに、患者が契約当事者なのであつて、患者が医師等に診療行為を求めるという法律行為は、まさに、患者自身が契約当事者となることを意思表示しているものと解されるからである。

本件につきこれをみるに、前記認定の如く、被告勇の被保険者証提出の効力は昭和五八年三月二五日の翌日以降であるというべきであるから、被告勇が入院した当初の昭和五八年三月一〇日から同月二五日までは自由診療契約による診療であつたものというべきである。

(四)  被保険者証提出の意義

一般に、国民健康保険医としての登録申請書を受理する権利を有し、消極的適性のない限り、これを国民健康保険名簿に記載しなければならない義務を負う都道府県知事のかかる権限は、厚生大臣からの機関委任によるものと解され、国より委任を受けた都道府県知事は、保険者たる市町村及び特別区に代つて、指定がなされ、または、登録申請を受理されることによつて保険医となつた医師等との間に、医師等においては被保険者のために国保法に定められた療養給付を行なう義務を有し、保険者においてはこれに対して保険医に対しその対価を支払う義務を負うことを内容とする、被保険者のためにする契約が成立しているものと解され、従つて、被保険者が現物給付の受給資格を証明する証票としての被保険者証を療養取扱機関に提出する行為は、受益者としての被保険者からする受益の意思表示と解されるのである。

ところで、自由診療契約は、前記の如く、患者と医師等との契約であるから、ここにおいては、患者は契約当事者であるのに対し、保険診療契約においては、患者=被保険者は契約当事者ではないため、本件では、診療当初から成立しているものというべき自由診療契約が解除されない限り、被保険者証の提出があつたからといつて、そのことのみで、直ちに自由診療契約が消滅することはなく、従つて、自由診療契約の消滅原因がない以上、法的には、医師の患者に対する療養給付は、自由診療と保険診療の両側面を併せ有しているものと解される。

しかしながら、自由診療契約は、前記の如く、患者と医師等との間の諾成、双務、有償契約であつて準委任契約と解され、かつ、右の準委任契約は当事者双方の利益のためになされた契約であるから、当事者双方は原則として、民法六五一条に基づき、これを解除することはできないものと解されるものの、本件の如く、保険診療契約が同時に併存しており、委任者及び受任者双方にとつて、医学的、経済的、社会的にみて、これをいつでも解除することができると解しても、合理性の範囲内で信頼関係に変化があるにすぎず、基本的な関係では、なお、当事者双方に信頼関係が継続することの予定される場合には、民法六五一条に基づき自由診療契約を解除することができるものというべきである。

そこで、本件につきこれをみるに、被告勇の代理人と解される被告靖代において、昭和五八年三月二五日、被保険者証を、原告の療養取扱機関である原告病院へ提出したことの認められる本件では、被告靖代の合理的意思解釈とすれば、自由診療契約を解除しなかつたとみられる特段の事情がない限り、被告勇への診療行為について保険診療により治療することを求めるとともに、従前の自由診療契約は将来にわたつて解除する旨の黙示の意思表示がなされたものと解される。

(五)  保険診療放棄の可否

一般に、保険診療は、前記の如く、保険者を要約者、医師等を諾約者、被保険者=患者を受益者とする第三者のためにする契約によるものと解され、受益者は被保険者証を提出することによつて、形成権を行使し、受益の意思表示をした以上、法律関係を安定させるため、これを撤回することができないものというべきであるが、受益者の有する継続的に給付を受けることのできる権利は、受益者において、これを将来にわたつて放棄することはできるものというべきである。

これを本件にみるに、被告靖代は原告病院事務局長の「保険扱いにすると充分な治療、看護ができない。」旨勧告され、かつ、被保険者証を返還されたことが契機となつて逍遥し、一時は保険診療への切替を断念した時期があつたものの、最終的には被告会社にその取扱いを一任し、被告会社において再度被保険者証の提出されたことの認められる本件では、原告病院事務局長の勧告内容が、療養取扱機関の職員の発言としては不適切なものであつて、これに基づく保健(ママ)診療への切替断念の意思は法律上無効なものというべく、また、一旦、被告靖代により解除された自由診療契約が復活すべき事由もなく、かつ、新たな自由診療契約が締結されたものとは認められない本件では、被告靖代に受益権の放棄があつたものとはいえない。

三以上によれば、被告勇が救急車により原告の経営する原告病院へ搬送された昭和五八年三月一〇日から同月二五日までの間は自由診療契約により、また、被告勇の国民健康保険被保険者証が原告病院に提出された同月二五日の翌日から同年五月四日までは保険診療によりそれぞれ診療行為が行なわれたものと認められる。

そうすると、原告が被告勇に対して請求しうる金員は、自由診療契約に基づく診療期間中は、医学的、社会的、経済的にみて相当な治療が行なわれていたことの認められる本件では、その金員、保険診療期間中は、厚生省令等国保法四五条二項または三項で定められた法令により算出される相当な診療報酬額のうち、被告勇の負担すべき十分の三に相当する金額(同法四二条一項)の合計金となる。

第二治療費

一自由診療期間中の治療費

<証拠>によれば、原告は被告勇の治療のため、昭和五八年三月一〇日から同月二五日までの間、診断書作成料等を含めて合計三七四万四、八三〇円(甲第四号証の一にみられる金員と、同号証に記載もれの注射液ウエノグロブリン1の三回分の費用三四万八、三〇〇円を加算した金額。)を要したことが認められる。

二保険診療期間中の治療費

<証拠>によれば、原告は被告勇の治療のため、昭和五八年三月二六日から同年五月四日までの間、設備費等も含めて、合計一五四万六、四五〇円(但し、記入もれの設備費等三、〇〇〇円を含む。右のうち、保険給付の対象となる金員は合計一五一万五、四五〇円のみ。)を要したことが認められる。

三原告の治療行為<省略>

四原告から被告勇に請求しうる治療費

右の事実によれば、保険診療における優遇税制、労災給付における単価並びに治療費算定方法等を前提に、原告の被告勇に対する本件治療行為が適切妥当なものであつたことを考慮すれば、健保基準の約二倍の範囲内である自由診療期間中の治療費三七四万四、八三〇円は、相当な範囲内での治療費として是認せざるを得ず、右治療費と保険診療期間中の治療費のうち、自費分三万一、〇〇〇円及び被保険者被告勇の自己負担分四五万四、六三五円を加算した総合計金四二三万〇、四六五円についてのみ、原告は被告勇に対し、昭和五八年三月一〇日から同年五月四日までに要した治療費として請求しうることとなる。

第三被告靖代、同和之、同宗弘、被告会社の責任

一被告靖代の責任

被告靖代は、原告と被告勇間の診療契約に基づく被告勇の治療費支払債務について、原告に対し、被告勇と連帯して支払うことを約したことは、当事者間に争いがない。

二被告和之、同宗弘、被告会社の責任

<証拠>によれば、被告和之、同宗弘、被告会社は、原告に対し、被告勇の原告に支払うべき治療費その他の費用を被告勇と連帯して支払うことを約したことが認められる。

三右事実によれば、被告靖代、同和之、同宗弘、被告会社は、原告に対し、被告勇が原告病院において診療を受けたときに要した治療費につき、被告勇と連帯して支払う義務がある。

第四弁済

被告会社において、原告に対し、被告勇の治療費内金として二〇〇万円が支払われたことは、当事者間に争いがない。

第五相殺の抗弁について

一承諾書に署名させたことによる不法行為

被告勇、同靖代は、原告病院事務局長が甲第一号証の承諾書に署名させたという強要行為により保険診療を受けることができなかつたのであるから、自由診療による治療費と保険診療による治療費との差額を損害として、その損害賠償を求める。

しかしながら、被告靖代本人尋問の結果によるも、被告勇の入院当初、被告靖代には自由診療と保険診療の異同についての認識はなく、損保リサーチ社員岡村から、「被告勇にも過失がある。治療を保険に切替えた方がよい。」と忠告されたことから、原告病院へ国民健康保険被保険者証を提出することを決意し、その翌日である三月二五日に被保険者証を原告病院へ提出したことが認められ、右事実によれば、被告勇の入院当初、被告靖代が原告病院に対して被保険者証を提出しなかつた理由は、被告勇に要した治療費の全額を加害者側において負担するものと考え、自由診療または保険診療のいずれによるも、被告勇に不利益がないと判断したためであると推認され、原告病院事務局長が甲第一号証の承諾書に署名、捺印することを強要したためであるとは認められない。

そうすると、原告において強要したとする甲第一号証の作成と、生じたとする損害との間には因果関係がないものというべく、この点に関する被告勇、同靖代の主張は、その余の点を判断するまでもなく、採用することができない。

二原告病院の対応による不法行為

(一)  <証拠>によれば、原告病院事務局長は、被告靖代に対し、昭和五八年三月二五日に提出された被保険者証を同人に返還する際、原告病院側で作成した「初診時から昭和五八年三月三〇日までの治療費は相手方飛鳥氏の加入する富士火災へ請求することに同意します。」「治療費に関して私の意思で富士火災の任意保険で今後も治療していきたいと思います。」という内容の念書二通に署名、捺印させたこと、続いて、同年四月中旬ころ、原告病院事務局長は、被告靖代に対し、「金がないのなら貸してあげるから、これに署名してくれ。飛鳥には保証人になつてもらつてくれ。」と言いながら、元本のみを六二七万一、四九〇円と記載し、貸主欄及び利息、遅延損害金の利率部分などを白地にした金銭借用書を手渡したこと、ところが、被告靖代において右申出を拒否するや、同事務局長は「金を払つてくれないと、どんなことになつても知らん。医者を怒らしたので、野たれ死にしても知らん。」などといい、ついに、昭和五八年五月七日、治療中途のまま、被告勇は転医せざるをえなくなつたことが認められる。

(二)  ところで、国民健康保険登録医及び療養取扱機関は、患者から被保険者証が提出された場合には、保険診療を拒否することはできず、保険医は、直ちに、保険診療方針を設定し、患者に対して適正な診療を行なう義務があること前記のとおりであり、また、交通事故により受傷した患者に対しても、原則として、保険診療を拒否することのできないことも前記のとおりであるから、保険医としての原告及び療養取扱機関としての原告病院は、被告勇より被保険者証を提出された昭和五八年三月二五日の翌日以降は、保険診療によつて被告勇を治療すべき義務があつたものというべきであるのに、右認定事実によれば、原告病院事務局長はこれを拒もうとしたのみならず、被告勇の被保険者証の提出による受益の意思表示の放棄をせまり、自由診療を継続したものとしようとし、治療費の支払確保と称して金銭借用書への署名、捺印を被告靖代にせまり、遂には、被告勇を転医せざるを得ない状況に追い込んだことが認められるのであるから、保険医であり、原告病院事務局長の使用者としての原告は、民法七一五条により、その療養機関の事務局長の行つた右の如き職務上の違法行為によつて発生した被告勇、同靖代の損害を賠償する責任がある。

次に、被告靖代、同勇の損害を考えるに、前記認定の如く、被告勇の被保険者証の提出によつて昭和五八年三月二六日以降の被告勇が原告に支払うべく治療費は保険診療に基づく自己負担分の金員及び自費分の金員に限られるのであるから、同日以降の自由診療による治療費金員と保険診療における被告勇の自己負担分との差額を損害として把えることができないのは当然として、被告靖代は、被告勇の妻として、同人の健康回復を願い、また、被告勇の代理人として、同人の治療費支払及び保険診療への切替について原告病院事務局長と交渉した際に、原告病院事務局長の右の如き違法行為により、被告勇の診療に要した治療費等の金銭面で、また、被告勇の健康回復への不安感という側面で、被告靖代に精神的苦痛を与えたことは否定しえず、被告勇は、治療中途で転医を余儀なくされたことによる精神的苦痛があつたことも容易に推認され、その他、原告の適切な治療行為により被告勇は一命をとりとめたこと等の諸事情を考えれば、右両名の右の如き精神的苦痛を慰藉料として金銭に換算すれば、各人につきそれぞれ二〇万円宛とするのが相当である。

(三)  記録によれば、被告勇、同靖代は、第五回口頭弁論期日(昭和五九年四月一二日)において、それぞれ右の如き不法行為債権を自働債権として相殺の意思表示をしたことが認められる。

第六結論

右にみた如く、被告らは被告の勇の治療費の連帯債務者として、原告に対し、合計金四二三万〇、四六五円から弁済分の金二〇〇万円を控除した金二二三万〇、四六五円の支払義務のあるところ、被告勇、同靖代はそれぞれ金二〇万円の相殺の意思表示をし、これを援用したのであるから、右合計金四〇万円は総債務者の利益のために連帯債務額より控除される結果、被告らは連帯して、原告に対し、金一八三万〇、四六五円及び記録上訴状送達の翌日であることが明らかな昭和五八年九月八日から支払済まで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、原告の本訴請求は右の限度で正当であるから認容し、その余の請求は理由がないから棄却を免れず、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条、仮執行宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(坂井良和)

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